
※登場人物は全て仮名です。
34歳、二児の母・美咲が「ふるさと納税」という言葉を初めて真剣に受け止めたのは、ある金曜日の夜のことだった。
「ねえ、今年のふるさと納税もう済んだ?」
ママ友グループLINEに投下された何気ない一言。美咲はスマホを片手に首を傾げた。ふるさと納税?ああ、確か去年夫が「カニでももらおうかな」とか言ってた気がする。結局やらなかったけど。
すると立て続けにメッセージが流れ込んできた。
「私は今年も新潟の無洗米20kg!」 「うちは北海道のゆめぴりか10kg×2袋!」 「無洗米最高だよね。もうスーパーで米買えない体になっちゃった(笑)」
無洗米。美咲の脳裏に、スーパーの米売り場で見かける「ちょっと高いやつ」のイメージが浮かんだ。
「でもさ、無洗米って普通の米より高いじゃん?」
美咲が素朴な疑問を投げると、既読が一斉についた。そして数秒後、まるで待っていたかのように返信が殺到した。
「ふるさと納税だと実質2,000円だよ!?」 「え、美咲ちゃん知らなかったの!?」 「これ知らないで米買ってるとか、年間10万損してるレベルだよ!」
美咲の手からスマホが滑り落ちそうになった。10万円。10万円!?
その夜、美咲は眠れなかった。
子どもたちを寝かしつけた後、リビングでノートパソコンを開き、検索窓に「ふるさと納税 無洗米」と打ち込んだ。するとどうだ。出るわ出るわ、絶賛の嵐。
「無洗米は米とぎの手間がゼロ!冬の冷たい水から解放された!」 「環境にも優しい。とぎ汁を流さないから河川汚染防止になる」 「実は栄養価も高い。表面の旨味成分が流れ出ないから」
美咲は目を見開いた。待って待って。つまり無洗米って、楽なだけじゃなくて、普通の米より優秀ってこと?
さらに調べを進めると、衝撃の事実が次々と明らかになった。無洗米は特殊な製法で肌ヌカを除去しているため、最初から研ぐ必要がない。水を入れてすぐ炊ける。しかも普通の米をといだ状態より清潔。
「なにそれ、完全上位互換じゃん...」
美咲は呆然とつぶやいた。そして自分の米とぎ人生を振り返った。
結婚して10年。毎日毎日、冷たい水で米をとぎ続けてきた。冬なんて指先が痛くて、お湯を混ぜてごまかしたこともある。急いでいる朝は2回とぎで妥協し、丁寧にやる日は5回も6回もすすいで。
「あの時間、全部無駄だったの...?」
時計を見ると午前2時を回っていた。でも美咲の探究心は止まらない。今度はふるさと納税のサイトを開いた。
「ねえ、ふるさと納税やろう」
翌朝、まだ寝ぼけ眼の夫に美咲は宣言した。
「え?急にどうした?いいけど、何もらうの?」
「無洗米」
「...米?」
夫は首を傾げたが、美咲の真剣な眼差しに押され、年収から計算した控除限度額を調べることに協力した。結果、約6万円分のふるさと納税が可能だと判明。
「じゃあ、これとこれとこれ!」
美咲は勢いよくサイトをスクロールし、新潟のコシヒカリ20kg、北海道のななつぼし15kg、山形のつや姫10kgをカートに入れた。合計45kg。
「多くない?」
「大丈夫、うち月15kg消費してるから、これで3ヶ月分。残りの3万円でお肉とかもらえばいいし」
夫は妻の豹変ぶりに圧倒されながらも、「まあ、米なら確実に使うしな」と承認した。
美咲は震える指で注文ボタンを押した。これが、彼女の無洗米人生の始まりだった。
2週間後、玄関に巨大な段ボールが3箱届いた。
「重っ!」
宅配業者さんに感謝しながら箱を開けると、ピカピカの無洗米袋が鎮座していた。美咲は小学生のような表情で袋を抱きしめた。
「さあ、今夜はデビュー戦よ」
夕方、いつもの時間に炊飯器の前に立った美咲。だが、いつもと違う。米袋を傾け、計量カップで3合すくう。そのまま内釜へザラザラと投入。水を目盛りまで注いで、スイッチオン。
所要時間、15秒。
「...え?」
美咲は自分の手元を見つめた。とぎ汁が飛び散ったシンクもない。冷たい水で指先が痛むこともない。米粒が排水溝に詰まる心配もない。
「これだけ?本当にこれだけ?」
信じられない思いで炊き上がりを待った。45分後、炊飯器が「ピー」と鳴った。
蓋を開けると、湯気とともに立ち上る米の香り。ふっくらと炊けた白米が、まるで宝石のように輝いていた。
「いただきます...」
一口、口に運ぶ。甘い。ふっくら。もっちり。
「普通に美味しい。というか、普通の米より美味しいかも...」
夫も「うん、いつもよりツヤがある気がする」と頷いた。子どもたちはいつも通りモリモリ食べている。
その夜、美咲は悟った。これまでの人生で失った米とぎ時間は、おそらく数百時間。そして気づかないうちに流していた旨味成分も、計り知れない。
それから1ヶ月後、美咲はすっかり無洗米信者になっていた。
「ねえ聞いて!今朝も15秒で米セットできたの!」
ママ友LINEで熱く語る美咲。しかし彼女の布教活動はそれだけでは終わらなかった。
「お義母さん、これ使ってみてください」
実家への帰省時、美咲は無洗米5kgを手土産に持参した。
「無洗米?あら、便利そうね」
軽い反応だった義母が、2週間後に電話をかけてきた。
「美咲さん、あの無洗米ね、もう手放せないわ。膝が痛くて米とぎがつらかったの。でもこれなら楽で、本当に助かるわ」
美咲は電話口で小さくガッツポーズをした。
さらに職場の同僚にも、「絶対やったほうがいいよ」と力説。最初は「そんな大げさな」と笑っていた同僚たちも、実際に試すと次々と陥落していった。
「美咲さんの言う通りだった...もう戻れない...」
気づけば美咲の周囲は、無洗米ふるさと納税仲間で溢れていた。
それから半年。美咲は夕暮れのキッチンで、無洗米を炊飯器にセットしながらふと思った。
「私、ちょっと熱くなりすぎたかな」
最近、会う人会う人に「無洗米いいよ」と勧めている自分に気づいた。まるで何かの宗教みたいじゃないか。
でも、と美咲は考える。本当に良いものを知ったとき、人はそれを分かち合いたくなるものだ。特にそれが、毎日の小さなストレスから解放してくれるものなら。
炊飯器のスイッチを押す。いつもの15秒。この15秒が、かつては5分だった。5分が15秒になるだけで、人生の質は確実に上がる。
「まあいいか。おせっかいでも」
美咲は小さく笑った。
リビングでは夫が「今日も米美味しそうだな」とテレビを見ながら呟いている。子どもたちは宿題をしている。何でもない日常の夕暮れ。
でもこの平和な時間を支えているのは、玄関のシューズボックスの上に積み上げられた無洗米の備蓄かもしれない。
美咲はエプロンを外しながら、スマホでふるさと納税サイトを開いた。来年の返礼品を見繕う季節が、もうそこまで来ている。
「さて、今度は何県の米にしようかな」
無洗米に目覚めた女の物語は、まだまだ続く。